■ Days 03.06.26 ■ Days 02.12.13〜03.01.27


2月6日 トシちゃんと三島と

 朝、下田のトシちゃんから、鯵の干物が沢山入った宅配便が届いた。
 夏の終りに伊豆へ遊びに行って、トシちゃんの店へ寄ったおりに進呈した「IGNITION」のサンプルCDのオレイなのかもしれない。食べきれないほどの旨そうな干物に、こちらが反対に気をつかってしまうものの、いち新しいオトモダチとの交流のひとつとして、やはり素朴に嬉しいものだ。

 トシちゃんとは、2000年のやはり夏の終りに伊豆下田で知り合った。
 その夏、44のニューアルバムの制作に向けて、それまでやってきた、リハーサルスタジオにメンバーが集まって、短期間で一気に仕上げるというノリ重視のアレンジをやめ、作曲からアレンジ、レコーディングの一部に至るまでの行程を、緻密にコンピューター作業してゆく方法へと環境を新たにしたことで、春頃から自宅にこもりっぱなしで作業に没頭していた。
 ようやくあたらしい機材システムにも慣れ、自分なりに使いこなせてきた時期ではあったが、創作の悦び、屈辱と苦悩も個人的である分ひとしおだった。矢のように時間は過ぎてゆき、経験のない類いのストレスは募りに募り、もともとはっきり云って性に合わない、行動範囲のあまりにも少ない檻のような生活に、もはやいい加減ウンザリしていた。出来るまであと一年は悠に懸かろうリリースの一週間や二週間の遅れたところでいったいドウナルというのかと、得意の開き直りに達した結果、やたらと時間の流れが速い東京を、いっそ暫く離れたくなっていた。
 時節が真夏というのもあり、いちおう人並みに海や山のある環境へとこの身を投じたかったが、ヒトゴミには耐えられない。どうせ8月中は何処へゆこうと道路も混んでいる。

 海へ行くにしても、疎らな人影を遠くにしか見ない程度の砂浜、ホテルや旅館へ泊まるにしても、シーズンオフの、閑散とした中途半端な季節がほんとうは望ましいし、街中であっても、本来賑わう筈の場所に忽然と人々が姿を消す荒涼とした瞬時、風のきこえるビルの谷間や靄がかかる彼方へ延びる道路、無人の広い公園の敷地、夜の、無意味に点灯する外灯の群れ・・・、いずれにしても殺風景な景色に魅かれるのはなぜか?ライブは別として、人の多い熱気が恋しいことは滅多にあり得ない。

 そんな事情や心情により、世間で云う夏休みも終る、真夏の猛暑も既に過ぎ去った9月掛かりの昼下がり、さんざんゆく宛を思案したのち、車を跳ばして静岡県南伊豆へと向かうことにした。
 南伊豆を選んだのは、何か急用でもあれば割合すぐに東京へ戻れるということや、途中、湾岸沿いに走れば伊豆高原に住む伯父伯母夫婦のところへ久々に顔を出せるということもあったが、最大の目的は、敬愛する小説家、三島由紀夫のある作品舞台を訪れることにあった。



 三島作品の実際の舞台やモチーフは、「金閣寺」の京都北山、「豊饒の海」の奈良円照寺、「潮騒」の三重県神島などの有名どころや、短編作品もあわせれば、関係資料の書籍、ホームページに拠って詳しく取り上げられている。とりわけ、海をこよなく愛した三島だけに、砂浜や岬、漁港や港町の描写も多く、その多作だった作品群から探せば、ロケーションとなった海が伊豆半島には結構あり、この年より以前、そういう意識をもって「真夏の死」の舞台である今井浜の海岸を訪れたこともあるし、「獣の戯れ」の西伊豆、黄金崎を観に行き、取材と執筆の為長期滞在したと云われる、鄙びた漁港に戦前から残る木造旅館のその部屋に泊まったこともあった。しかし、前から気になっていた、南伊豆下田に設定された件の短編小説、「月澹荘綺譚」に登場する舞台に関しては、小説の冒頭に拠る伊豆半島南端の下田、かつての下田城跡の城山公園、岬の名称である赤根島(作品には茜島とある)など、実名記されている箇所も幾つかあり、三島自身を主人公にオーバーラップさせている興味深い内容であるにもかかわらず、主人公が滞在したホテル、表題である月澹荘(げつたんそう)という名の夏の別荘、またはそのモチーフとなる建造物跡や物語が実在したのかは、どこにもとりあげられていなければ、その類いの解説なども見つからなかった。そうなると、いったいどこまでが事実であり架空であるのか、好奇心はいっそう昂まり、自らの眼で直接確かめたくなった。
 昭和40年頃書かれたその短編の前章には、およそこうある。
 主人公は、ある夏、伊豆半島南端のとあるホテルに滞在中、ホテルからほど近い海沿いの遊歩路を度々散歩した。ある日の夕刻、いつものコースを外して、人の住まない岬の険しい突端へ出たところ、その荒涼とした異様な自然の情景に目をやるうち、なにか言い知れぬ不安な情緒にかられる。そこで一端岬を離れたのち、ホテルへ戻ろうと思案するが、結局それとは逆の方向へ向かったばかりに作者の言葉を借りるなら、"そうして歩きだしたばかりに、私はあの異様な物語の中に身を浸す羽目"になる。この後、怪しげな老人と出会い、余暇に探していた、その存在の疑わしい、この地に40年前焼けたとされるいわくつきであった華族の営んだ別荘跡の有無を訊ねる。かつてそれは存在し、老人の口から物語の本筋である、大正末期の頃この界隈で起こった殺人事件を聞かされ、彼の執拗な詮索はしだいに事件の面妖な深みへと嵌まってゆく・・・。
 この一編の作品は、いつもながらやはり美文であるには違いないし、展開の面白さからいっても三島の優れた短編作家としての才能がうかがえるものの、ストーリーの具体性の強さに対して、主題がめずらしく希薄に思えた。割腹自殺を遂げる5年ほど前からはじまる作風の特異な変化はあったとしても、自意識過剰な作家にして、評価への意識は殆どなされていないし、そういう意味において、おそらく、三島文学的尺度としての重要性ではそれほど高く評価されていないに違いない。しかしそのせいか気負いのない自然な作品に仕上がっていて、逆にこの奇異な作品の強みとなって成功している筈で、あたかも三島本人の一般的イメージから少し離れた一面を垣間みるようである。あくまで勝手な解釈だが、その一面とはいわゆる三島由紀夫の、というよりは、ひとりの人間の混沌とした"魔"の在り方であり、"三島の、あまりにも日常的ですらある魔の存在"であるように思える。
 つまるところ、その約一週間に及ぶ小旅行の主な目的は、海岸に聳える筈の孤立するホテルに過ごし、複雑怪奇な物語と出会う主人公の探索をさらに追って、存在するであろう不吉な荒磯、岬の断崖を辿り、あるいは爽やかな潮風につつまれ、まばゆい沖を眺めることだった。

 伊豆のガイドブックにでている下田港周辺地図によると、最初に簡単な手がかりが三つほど見つかる。
 岬の突端である赤根島から、和歌丿浦の入り江伝いに、東北へ遡るとすぐのところに城山公園があって、その広い敷地内を巡る歩道への入り口が、よく見ると三箇所点在し、そのうちのふた方が更に北の下田内港と下田市街へと繋がっている。残るひとつは城山の南側、つまり和歌丿浦の入り江からほど近いところにある。小説に書かれている、"岬の道を東へ向かいながら、私が探したのは城山公園へのぼる近道である"とは、おそらくこの入り口のことで、正しければその辺りが月澹荘跡ということになる(その観光地図でみるかぎり、周囲には駐車場とバスの停留場、それにレストラン、そして先には入り江を浮かぶ水族館があるようだった)。
 更に赤根島の、今度は岬に沿っての西側を指でたどってゆくと、和歌丿浦遊歩道という、岬の麓を囲むかたちで延びる歩道が続き、その先の入りくんだ海岸沿いにホテルが幾つか見つかる。"城山の岬の鼻をめぐる遊歩路がホテルから程よい道のりなので、しばしば散歩をした。滞在の第一日には岬の西側をとおり・・"とあることから、"城山の岬の鼻をめぐる遊歩路"とは、和歌丿浦遊歩道にちがいなく、滞在したホテルがこのうちのどれかである可能性は高い。
 ここからは勘に頼っていくしかなく、迷ったあげくいちばん奥に行きついたところの、丘の上に位置するホテルを選んだ。



 その日の伊豆は晩夏の晴天に恵まれていた。
 前夜、ほとんど一睡もしていなかったので、Tホテルにチェックインする頃には既に疲れていた。ロビーに人は少なく、遠く相模湾を映すきらびやかな夕日が、広々とした硝子窓に輝いていた。時間は4時を過ぎていて、宿泊客の何人かがプールや砂浜から戻ろうとしている。
 案内された部屋から見る海の眺めは素晴らしく、真下の湾をとりまくように、右方を連なる岬の森がせまっていて、一方、左方には丘の向こうを岬のなだらかな勾配が西日を遮るように海へと向かい、その先に広がる太平洋の霞んだ地平線が見えた。
 風にのった海岸によせる波音だけが聞こえ、 遥か沖合に二隻の大型船が佇んでいる。
 そのうち、森の方から入り江の方へと徐々に翳りが濃くなり、日没の迫った空の色彩が鮮やかに変わっていった。
 季節はずれの海辺の一日はすでに終ろうとしていた。





 夜、ホテルのレストランへ降りて夕食を摂ってから、ふたたび部屋へ戻ったのち、三島作品と、それに関するの本の中から一冊抜きとって、せっかくなので浸ろうとしたが、すぐに睡魔が襲って眠ってしまった。
 
 早朝7時頃目醒めた。と同時に下田に居ることを思い出した。
 烈しい日射しの洩れたカーテンを引くと、まばゆい太陽の逆光に照らされた海原が嘘のようにあった。
 
 レストランホールは昨夜と一変して、半分以上のテーブルが人で埋まっていた。席について見渡すかぎり、カップルや家族連ればかりで、いくら9月とはいえ、リゾートにひとりで来るような客は他にはなさそうだった。
 そのうち、意識しすぎだろうが、あきらかに席のまわりの、特に御婦人からの視線を感じた。見知らぬ他人をなんらかにカテゴライズしなければおさまりがつかないのは、自分もそうである。たぶん見ためにも堅気には見えないだろうし、判断に時間がかかるのだろう。
 役者か音楽家の部類だろうか、それにしては見たことないし、きっと売れていない何かにちがいない(コレハアタッテイルとして)、イイトシして連れもいないなんて、きっとワケアリなのだろう、性的不能とか・・・、といった御婦人らの声が聞こえてきそうである。
 ひとり旅のこれには慣れつつあって、いつだったか、奈良吉野へ旅をしたときも、旅館から興味津々の眼でみられ、その二日目、うちとけた仲居のおばさんから、ハイユウさんかオンガクの人とちがうかと、帳場で話していたと言われ、オンガクです、と答えると、お若いのにおひとりなもんやからなんぞワケでもあるのかと思てましたわぁーと、まるで自殺願望の疑いを告白され、ロックミュージシャン志望の孫の行く末を相談されたこともあるし、やはり三年前の冬、一人で東北を旅したときのこと、温泉街のさらに山奥の古い旅館にチェックインした際、その時着て行ったワイズのモスグリーンの上下に同じくモスグリーンのロングコート、それにサングラスと手にしたゼロハリバートン、という温泉旅館にはあるまじきイデタチのせいもあってか、帳場の旅館の親子に、かなりアヤシソウな眼で見られ、他に二組のお年寄夫婦の宿泊しか見かけなかった、だだっ広い館内に結局三日間滞在したが、客室で朝夕食事を摂る際、ここでも、うちとけた仲居のおばさんに酌をされながらいろいろと訊かれ、旅館では謎の客となっていたらしく、職業を訊ねられ、探偵だと答えた。イズレにせよ、国内の旅はカップルでゆく方が気はラクだが、それでも旅の究極は一人だろう、と思われる。
 晴れ渡る天候にめぐまれ、明るいホールは賑やかだ。新聞片手に相づちを打つ連れあいに延々話かける朝の化粧のまだ落ち着かない女たち、はしゃぎまわる子供をなだめるわが子らと同じ色彩で揃えた若い元気な夫婦ら、遠い日を後悔するように窓外の景色を神妙に見つめる老夫婦、さまざまである。



 朝食を終えて部屋へ戻ろうとした時、ロビーで年配の従業員と擦れちがったので、呼び止め、おもいきって三島のことを訊いてみた。
「ちょっと教えてもらえますか?ここのホテルに昔、三島由紀夫さんがよく泊まっていたことってないですよね?」
 初老のホテルマンは、このチャチな言いまわしの質問にはっきりと反応し、笑顔だが威厳ありげに答えてくれた 。「三島さんなら昭和の40年頃からでしたか、亡くなるまで毎年ご家族で来られてましたよ」と。
 この言葉への感激はいうまでもなく、なにか運命的なものを考えたほど、あまりにもめでたい自分をしばらくは押さえきれなかった。



 午後から、軽装に着替えて、フロントで周辺地図をもらい、ホテル脇のビーチへ出かけた。
 ホテルの丘を降りきると狭い車道越しに海岸の岩場がつづいており、車道をつたって西へ少し歩くと、岬のいちばん入りくんだ砂浜が、小さな海水浴場になっている。片側を湾曲した森林に縁どられ、深いエメラルドグリーン色した海面は沈んだように穏やかで、そこだけ眺めると、あたかも森の湖のようである。
 波打ち際の水は静かで、冷たかった。辺りには二三のカップルが佇むだけで、晩夏の暖かい太陽の下、遠く沖合に輝く相模湾だけが、時空の擦れで、まだ真夏をとどめているかのようだ。
 私は海を抱きしめていたい、という天使、坂口安吾の気持ちが、ケイハクながらわかるような気がする。あと、海を見ながら自慰するというミュージシャンをひとり知っているが、こちらの方は気がしれない。
 砂浜に寝そべって、件の「月澹荘綺譚」を読みなおしているうち、初老のホテルマンとの会話を反芻した。まるでさっきの出来事が、小説の、主人公が見知らぬ老人から月澹荘に起こった過去の回想を聞くかされるくだりのように重なって思えてくる。若かりし頃の彼にとって、常連客である、当時一世を風靡した三島の存在は、さぞ眩しかったことだろう。やや熱のこもった彼の思い出話を聞くうち、あの時代の三島の凛々しい表情、豪快な笑い、夏のリゾートで過ごす三島流のスポーティーな装い、上着の色までが眼に映るようだった。
 しかし、小説のモデルとなった著名な夏の別荘が、明治から大正にかけて、ここからほど近い城山公園麓に存在したかどうかについては、わからない、とその時はっきり言っていた。

 日射しが少し西へと傾きだしたので、ホテルへひきかえそうと、本やペットボトルをしまい、タオルで砂を祓った。小説の冒頭である、東の遊歩路からのコースを小説と同じ時刻にたどる為に。


 和歌丿浦遊歩道は、ホテルと海岸を隔てた車の来ない車道が東に突きあたる所に始まる。車道は岬の傾斜の出現により下田市街へと折れて行き、そこから海岸沿いは急に狭まって、間近に迫る波飛沫が濡らす石畳の歩道が現れる。
 潮の流れが巌を色濃く渦巻く水際と、草木の生い茂る岩肌の間をなぞるように延びる小径は、緩やかにカーブしながら岬のほど遠い突端、赤根島へとつづいてゆき、周囲を、沖合のおぼろげな夏雲と輝くまばゆい海原、黄金色の斜陽を残した連なる森林が広がる。乳白色に翳る辺り一帯に時折映える日の光の中を歩いてゆくうち、そういった風光明媚に移り変わる景観が、足もとのなだらかに打ち返す潮騒と溶けあって、麗しくも荒々しい、まるで生きた日本画を観るようである。
 まさに三島のいう、"角を曲がる毎に眺めを一変させる小さな入江入江を愉しんで歩いた。"とはこのことだろう。
 海からの風は撫でるように優しく、人の通らない渚は何か叙情的だった。
 振りかえった後方に、Tホテルが丘陵から大浦湾と岬の西方全景を臨むかたちで聳えている。
 そのいかにも希望に満ちていた1960年代のリゾートホテル然とした外貌を眺めるうち、過去のさまざまな小説や邦画、アーカイブ映像、さらには、若かりし頃の自分の両親への記憶にまでみられる、あの頃の人々の生きざまであるかのような、三島が生きた日本の情熱的な世相への、釈然としない空想のような懐かしさや憧れが感じられ、これら見渡すすべての景色が時間を越えて、今にもセピアカラーへと変色しだすかのような錯覚に陥る思いだ。



 しばらく歩くと、もはや小径に嵌まる風流な石畳は途切れ、そこから大まかなコンクリートとアスファルトによって舗装された道のりは、しだいに麓を上昇し、小高い崖の上からに白い波打ち際を見下ろすことになる。
 辺りは一変し、浅瀬の至る所に、遠い昔の溶岩流と激しい落石を物語るかのような、巨大な岩石の出没が多く目立ち、岬の勾配はさらに鋭く反って、草木は絶えてゆき、荒い岩肌だけが顔を出しはじめる。"その入江が、岬の鼻へ近づくに従って、次第に荒々しい荒磯になる。長大な岩が蝕まれ、大きな破壊のあとのように乱雑に折れ重なっている"海岸とは、恐らくこのあたりに違いなかった。
 荒涼とした寒々しさとも混じり合い、海辺の眺望の美しさはひときわ凛然としていったようでもあり、美とはまったく関係のない、自然が導く無への境地のようなものを垣間見せられたようにも思われる。




 岬の二つ目の鼻を越えると、すでに赤根島は近かった。
 道は、坂を下ってゆくかたちでふたたび波打ち際へと近づいてゆき、その水際を翳す野生の松木の鋭利な枝葉がそよいでいる。
 行き着いたところの小さな入り江では、躍動感のあった風光が消え失せつつあり、木々の梢で見え隠れする間近な赤根島と、そのほとりで水遊びを楽しむ人影がちらほらで、さらに先の歩道が終焉に達したかのような夏の浜辺には家族連れが賑わい、岸を挟んだ向かいの入り江では、海中水族館なるもののイルカのショーがおこなわれていた。小説にはない場面だった。40年前には、このあたりは今とはことなって、もっと殺伐としていたに違いない。
 水飛沫をあげ、にこやかな観客の見まもるなか二頭のイルカが跳ねる。その光景の後ろを近くに迫る岬の無垢な勾配が重なっている。



 赤根島は、島というより小さな島のかたちをした陸つづきの丘陵で、そのあまりにも素朴で愛嬌のある形相をした島には、小説にもあるとおり、人の住む気配はなさそうなのはもちろん、行きかう人どころか、足を踏み込む場所すらすぐには見つからず、なんとか探しあてた雑木林の山道は、人がやっとひとり入れるほどの難路だった。
 中へ入りこむと、本当に作者はこんな荒れ地にまで足を運んだのかと、しだいに疑われ、歩いてゆくうち、赤根島での描写はすべて創られたものであり、本編の、綺譚というフィクションへの切りかえは、もしかすると、ここ赤根島からすでに始められていたのかもしれない、という考えが起こった。
 足場のわるい狭い赤土の坂をのぼると、いっせいに啼きだしたかのような蝉しぐれが耳につき、深い林の溝はあくまでも薄暗く、歩を進めるごとに、汗の滲む額を周囲の草葉が絶えることなく触れてくる。
 だが、やがて山道は平坦にひらけ、 明るみが差したかと思うと、夥しい波音とともに広い青空がしだいにあらわとなり、たどり着いた島の頂きの中央を、巨大な岩壁のアーチが、頭上を立ちはだかっていた。それはまさに小説にある、"岩壁を穿った洞門"だった!
 これも自然が創ったのだろうか、今にも、といえば大仰だが、近い将来には必ず崩れ落ちるだろう、その不安定で危険な洞門をくぐると、 低い岩肌と草木がゆくてを遮る向こうに、別世界のような輝かしい紺碧の海原を、黄昏色に染まる対岸の半島がよこたわっていた。
 空はどこまででも遠く、時空を超えたかのようだった。
 ここでの三島の描写は素晴らしく際立っている。作品中の前置きであるにもかかわらず、わずかな字数だが、最も表現が力強く、降りてくる霊感をそのまま掴んだような、迫真の箇所であり、この頃の作者自身のデカダントな心情を物語っている。その為、本筋の猟奇的綺譚よりも印象に残り、捉えようによれば、さらに複雑怪奇ですらある。
 それにしても、遊歩路の崖で感じた、あの憂鬱な自然の重みが、ここに来てもっと増しているようだった。 なんとあからさまに明るく、そして不気味なのか・・・。
 三島が(主人公が)こだわった、言い知れぬ"不安な情緒"を誘う情景とは、このことかもしれない。
 岬の南端の断崖からの見渡すかぎりの海、真下の荒磯に砕ける波、そして周囲のあらわな植物と岩石。そういった、これらを繋ぐ空間には自然が存在する以外なにもなく、あえていうなら無以外なにもない。 それはもちろん空虚としてではなく、自然に対して垣間みる不気味なエネルギーみたいなものだ。そういうものが人間の、あまりにも人間らしい精神の部分と接触することで、変化し、何か異様なものが生まれてしまうのかもしれない。それは美にもほどちかく、悪意さえ感じられるようだった。

 腕時計は5時20分を指していた。(主人公は5時10分前に島を降りかけている)ふたたび洞門をくぐった。
 麓にひきかえした頃には、夕暮れが迫っていた。めっきり人影は減り、さっきのイルカ二頭が餌をくわえて浅瀬の海面を泳いでいる。
 辺りに主人公が渡った茜橋というのはなく、陸つづきの狭い車道を、もと来たホテルへの道とは逆の"岬の道を東へ向かいながら"、城山公園へのぼる近道を探した。
 歩いてゆくと、舗装された車道は入り江に沿って湾曲し、すでに 閉館した水族館入り口の前へと出る。日没がすでに始まっていて、その無人の広場の傍らには、いくつかの自動販売機の 蛍光灯のあかりだけが灯され、そこらじゅう夜のとばりに翳っていた。
 公園への標識はすぐに見つかった。

 城山の森の斜面に、その入り口を示す石碑があった。その横には公園へのぼる坂道の小径があり、立て札には近辺の案内図と、城山公園の由来、下田城の略史が記されてある。ただそれだけだった。
 月澹荘という名はおろか、そこに古い大掛かりな建造物のあった形跡はもちろん、苔むした碑さえなく、小説に書かれている月澹荘跡の石切場、それも形すらなく、無人の車道の手前を車のない広い駐車場が、辺りの深い森に、空虚に囲まれているだけだ・・・。
 果たして、夏の別荘は存在しなかった。


 その宵の口、ホテルへは戻らず、その足で下田市街へと出た。そしてレトロな町並に驚いた。今まで国道136号線を通過するばかりで、まともにを訪れたのはその夏の終わりが最初だった下田は、ペリーの来航と唐人お吉のイメージだけしかなく、 さらに三島で頭がいっぱいだったことから、その歴史風土については、ガイドブックに載っている知識さえなかった。
 いにしえの港文化ただよう、町筋をしばらく散策した。町の風情は明治から大正にかけての趣を醸しだしていたが、昭和の良き時代を感じさせるような一角もあって、むしろそういった場所のリアルさを愉しめた。
 途中、鮨屋へ一軒入ったが、8時(!)に閉店となったので、ホテルへ帰ろうとしたが、飲みたらず、もう一軒、情緒あふれる店構えの飲み屋がまだやっていたので、入ることにした。
 暖簾をくぐり、引き戸をあけると、しばらくして声がかかり、中から志賀直哉と笠智衆をたしたような落ちついた老主人が迎えてくれ、座敷の奥へ通してくれた。 他に客はいなかった。
 二品ほどたのんで、ひとり日本酒を飲んでいた。
 伊豆の観光ポスターと魚拓を貼り巡らせた内装の、店内の中央にはテレビが吊ってあり、その左のカウンターが並ぶ先の玄関横に大きめの水槽があって、鰻や鯵などが泳いでいる。テレビは見ないでポスターと魚拓を眺めた。
 調理場の戸を開けて肴を持ってきた主人に、城山公園周辺の昔の邸や別荘について訊いてみたが、やはり期待する答えは返ってこず、反対に、何を探しているのかを訊かれたので、三島とその作品の内容を話したところ、驚いたことに、昭和40年頃、この店に三島由紀夫が来たことがあると言う。黒山の人だかりとなった玄関に、詰襟の真っ白な上下でオリメ正しく現れた三島は、主人の言いまわしを使うなら、「 ほら、今あんたが座ってるその場所 」に座り、うな重を注文し、承った主人はあまりの緊張に鰻を焼く手がふるえたらしい。鰻を喰って店を出るまで言葉かず少なく、終始沈着冷静だった三島に、当時いたく感心したものだった、と主人は語ってくれた。
 またもや感動したのは言うまでもない。主人との三島話に華が咲き、赤根島へ行ったことを言うと、「えー、アカネへいったのー!? 」と、調理場から自分と同い年くらいの、店の息子が呆れながら登場した。それがトシちゃんだった。
 赤根島へまで行く観光客なんて訊いたこともない、親子ふたり口を揃えて言う。「あそこはこわいよー」と言った、主人(親父さん)のひと言が、今になって思うと印象的だ・・。もっと詳しく訊けば良かった。
 店を親父さんとふたりでやっていて、釣りや釣り仲間と遊ぶこと以外あまり興味がないというトシちゃんとは、共通の話題こそ少ないものの、話しているうちに、気が合うというのか、初めて会うのに何故か親しみを感じた。もっと言えば、清く大らかな人柄に魅かれたともいえる。自分がロックミュージシャンであることを説明し、今とりかかっているCDが完成したら渡すと言い、再会を約束した。

 ホテルへ帰ったら深夜だった。
 それにしても三島は何故それほどまで下田に固執したのだろう?まあ、たいした意味はなかったのかもしれない・・・。
 バルコニーに出てみた。
 潮風が吹き荒れる中、彼方の外灯に照らされた白い波間が見えるだけで、空は漆黒の闇につつまれている。ぶつかってくる風の感触から、眼の前にある広大な空間を感じるのみだった。


 その後、この年の11月に新潮社から出版された、「写真集三島由紀夫」の年表にある昭和39年の欄に、"八月二日より二週間、伊豆下田の東急ホテルで家族と共に過ごす。以後、例年八月は下田で過ごすことが慣例となる。"とあり、又、この公開日記?【トシちゃんと三島と】を書いている間、「月澹荘綺譚」が収録されている、昭和40年に出版された短編集「三熊野詣」を閲覧したところ、先にチェックしなかったのが悔やまれたほど、その短編集を締めるあとがきは衝撃的なものだった。
 それにはこう書かれていた。

 "久々に短編集を出す。これから数年間は長編にかかりきりになるので、この集のあとは、又しばらく短編から遠ざかることになる。
 今度の四篇をまとめたのは、ほぼ同時期に書かれ、共通のテーマを待っているからである。この集は、私の今までの全作品のうちで、もっとも頽廃的なものであろう。私は自分の疲労と、無力感と、酸え腐れた心情のデカダンスと、そのすべてをこの四篇にこめた。四篇とも、いづれも過去と現在が尖鋭に対立せしめられており、過去は輝き、現在は死灰に化している。「希望は過去にしかない」のである。
 私はもちろんそういう哲学を遵奉しているわけではない。しかし自分の哲学を裏切って、妙な作品群が生まれてしまうのも、作家という仕事のふしぎである。自作ながら、私はこれらの作品に、いいしれぬ不吉なものを感じる。ずいぶん自分のことを棚に上げた言い方であるが、私にこういう作品群を書かせたのは、時代精神のどんな微妙な部分であるのか?ミーディアムはしばしば自分に憑いた神の顔を知らないのである。"





3月18日 イラク攻撃

 戦争が始まってしまいそうだ。世界の行方はかなり不吉である。
 もしも国家機密レベルの情報をすべての人が持てたとしたら答えは非常に簡単な筈だ。恐らくこの戦争の是非がわかれることもない。それにしても、あれほどのアメリカが、空爆をしかけるまでもなく、なぜサダムフセインくらい今まで暗殺できなかったのか?




3月20日 アメリカ、イラクへの攻撃開始

 戦争の行き着くところは、眼にみえる機能、人間の営みの機能の部分だけを残すところにあるという。
 少数のアメリカの権力者が起こしたこの戦争は、さらにイスラムとの対立を急ピッチで泥沼化し、最悪な結果へと導くだろう。世界は考えていたより愚かで古かった。




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